大人になる事と心の声。

知性と純粋さが出会うとき、人は本当の意味で成熟するー

私と父は、誕生日が同じ。

だから毎年、誕生日には実家に家族が集まることが多い。

今年もそんな家族の時間の中で、高校2年生の姪っ子から相談を受けた。

「大学受験のことで、ちょっと占ってほしい」

彼女は、いわゆる偏差値の高い進学校に通っている。

志望大学のこと、受験科目の選び方、勉強方法。

最初はそんな、ごく普通の進路相談だった。

ところが、ぽつりぽつりと話を聞いているうちに、話題は思いがけない方向へ進んでいった。

「最近、自分が何を好きなのかわからなくなってきた」

両親が褒めてくれる言葉も、心から喜んでくれているというより、きちんと評価されていないように感じるらしい。

「それって、高校受験で燃え尽きちゃったんじゃないの?」

そう聞いてみたものの、どうも違う。

以前は大好きだったことが、今はもう自分を癒してくれるものではなくなっているという。

ふーん、なるほど。

では、少し違う角度から心を覗いてみようか。

私は彼女を誘導して、インナーチャイルド、つまり幼い頃の自分をイメージしてもらうことにした。

すると、彼女の心の風景には、本棚がたくさん並んだ部屋が現れた。

その部屋には、一羽のウサギが座っていた。

「そのウサギ、何て言ってる?」

彼女は少し考えて答えた。

どうやら、そのウサギは以前はおしゃべりだったらしい。

でも、今は何も話さなくなってしまったという。

……なるほど。

本棚に囲まれた、言葉を失ったウサギ。

なんとも象徴的な光景ではないか。

もちろん、これは彼女の心が生み出したイメージであって、何かを断定するものではない。

けれど私には、ひとつの可能性が見えてきた。

知識を増やすことに一生懸命になるあまり、自分の内側の声に耳を傾ける時間が少なくなっていたのではないか。

すると彼女が、こんな話を始めた。

「小さい頃は、イマジナリーフレンドがいたの」

「物ともお話ししていたの」

「でも、今はもう声が聞こえない」

ああ、そうか。

この子は、幼い頃からとても豊かな感受性を持っていた。

目に見える世界だけではなく、自分の内側に広がる世界とも、ごく自然に親しんでいたのだと思う。

ところが成長するにつれ、学校の勉強、成績、受験、周囲からの期待……。

正解を求められる世界が、少しずつ大きくなっていった。

そして、かつて自由に遊んでいた心の世界が、いつの間にか遠くなってしまったのかもしれない。

でも、それは決して悪いことではない。

私は思った。

ああ、この子は今、大人への階段を一段登ったのだ。

しかしはたして

大人になるとは、何かを失うことなのだろうか。

私たちは成長するにつれ、たくさんの知識を身につける。

物事を論理的に考え、社会のルールを理解し、他人の立場を想像し、責任を持って行動するようになる。

それは素晴らしい成長だ。

けれど、その過程で私たちは、いつしか自分の感覚よりも、外側の評価を優先するようになることがある。

何が好きなのか。

何をしていると幸せなのか。

本当は何が嫌なのか。

何を望んでいるのか。

そんな単純で大切な問いに、答えられなくなってしまう。

子どもの頃は、好きなものに理由なんて必要なかった。

楽しいから楽しい。

好きだから好き。

ただそれだけで、世界は十分に輝いていた。

ところが大人になると、そこに理由や意味や価値を求め始める。

「それは将来役に立つの?」

「何か成果につながるの?」

「人からどう思われるの?」

いつの間にか、好きなことにさえ正解を求めてしまう。

でもね。

大人になることと、心の声が聞こえなくなることは、決して同じではない。

私たちは忙しくなりすぎたのだと思う。

頭の中が情報や予定や心配事でいっぱいになり、自分の心が何を感じているのか、気づく余裕を失っている。

あるいは、聞こえていても無視することに慣れてしまったのかもしれない。

本当の幸せは、達成した先にあるのだろうか。

良い学校に入る。

良い会社に就職する。

収入を増やす。

誰かに認められる。

目標を達成することは、もちろん素晴らしい。

努力が実を結ぶ喜びも、人生の大切な経験だ。

でも、それだけで心が満たされるとは限らない。

ひとつ達成すると、また次の目標が現れる。

もっと頑張らなければ。

もっと認められなければ。

もっと何者かにならなければ。

そうして、いつまでたっても「今の自分では足りない」と感じ続けてしまう。

けれど、人生の深い充足感というものは、必ずしも何かを手に入れた瞬間に生まれるものではない。

何の気負いもなく、誰かと比較することもなく、ただ自分でいられる。

そんな瞬間に、ふと訪れることがある。

私は、それを「本来の自分に還る」と表現している。

子どもに戻るのではない。子どもの自分と統合する。

ここが、今回いちばん伝えたいこと。

精神的に成熟するとは、単純に子どもの頃に戻ることではない。

大人として身につけた知識も、経験も、判断力も、そのままでいい。

むしろ、それらは人生を生きていくための大切な財産だ。

ただ、そこにもう一度、子どもの頃の純粋な感受性を迎え入れる。

理屈抜きに美しいと感じる心。

理由もなく何かに夢中になれる心。

悲しいときには悲しいと感じ、嬉しいときには素直に喜べる心。

誰かの評価を通さず、自分の感覚を信じられる心。

大人の知性と、子どもの純粋さ。

その両方を持って生きられるようになること。

それこそが、私の考える精神的な成熟のひとつの姿なのだ。

知識だけでは、人生は豊かにならない。

感性だけでも、現実を生き抜くのは難しい。

どちらか一方ではなく、両方が必要なのだ。

すべてはバランス。

17歳で、この問いに出会った意味。

今回、姪っ子と話していて、私は少し感動してしまった。

彼女は今、まさに大人への道を歩き始めている。

そして、その途中で一度遠ざかった幼い頃の自分と、もう一度出会おうとしている。

この年齢で、

「自分は本当は何が好きなんだろう?」

「なぜ以前のように心が動かなくなったんだろう?」

そんな問いを持てることは、実はとても貴重なことだと思う。

大人になってから、何十年もかけて向き合う人もいるテーマだから。

もちろん、今すぐ答えを出す必要なんてない。

好きなことがわからない時期があってもいい。

以前好きだったものを、好きではなくなることだってある。

それもまた、成長なのだから。

ただ、あの本棚に囲まれたウサギが、いつかまた話し始めたらいいなと思う。

いや、話さなくたっていい。

その隣に座って、ただ一緒に過ごす時間があれば、それで十分なのかもしれない。

そして、もうひとつ思ったことがある。

彼女は今回、自分から「相談したい」と言ってきた。

必要なタイミングで、自分自身を知るきっかけをつかみに来たのだ。

これは、私がすごいという話ではない。

彼女自身が、自分の内側にある違和感を見過ごさず、そこに向き合おうとしたことが素晴らしいのだ。

もしかしたら、いつかこの経験が、誰かの心を理解する力になるかもしれない。

自分が迷ったからこそ、迷っている人の気持ちがわかる。

自分の声を見失ったからこそ、誰かが自分の声を取り戻す手助けができる。

そんな未来が待っているのかもしれない。

それを「使命」と呼ぶのかどうかは、わからない。

でも、人生で経験することには、後になって初めて見えてくる意味がある。

彼女の人生がどんなふうに展開していくのか、これからがとても楽しみだ。

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大人になるとは、純粋さを捨てることではない。

知性を身につけた自分が、もう一度その純粋さと手をつなぐこと。

私は、そんな大人がもっと増えたら、この世界はずいぶん生きやすくなるんじゃないかと思っている。