ジャイロスオーナー羽奏です。
今日は皆既月食。
そして、叔父の告別式だった。
叔父はキリスト教プロテスタントの牧師で、神学校の先生でもあり、世界中を飛び回っていた人だった。
いつもニコニコしていて、誰に対しても優しく、さりげなく気にかける。
子どもの頃はただ「優しいおじさん」だったけれど、大人になってから会うと、精神的に成熟した人だとわかった。
静かで、揺れが少なくて、でも温かい。多くの人に慕われていた。
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告別式は、故人の希望どおりの内容で執り行われたらしい。
そう、病気が発症してから12年。
ゆっくりと進行したから自身の最後を考える時間は沢山あったのだろうとは思うが
式を取り行う牧師も、讃美歌も、聖書の箇所も、すべて叔父が生前に決めていた。
自分の最期を、自分で整えていく。
それだけで、その人の生き方が見える気がした。
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その中で読まれた聖書の一節。
「私にとっては生きることはキリストであり、死ぬことは益である」
新約聖書『フィリピの信徒への手紙』1章21節。
書いたのはパウロ。彼は牢の中で、処刑の可能性を前にしてこの言葉を書いている。
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私は最初、この言葉をスピリチュアル的に解釈した。
「生きることはキリスト」とは、いわゆるキリスト意識で生きることなのではないか。3次元ではなく、5次元以上の意識。悟りのような境地。
十字架にかけられたイエスは、処刑者たちとは意識の次元が違った。
身体は傷ついても、心も存在も傷つかなかった。だ
から「彼らをお赦しください」と言えたのだ、と。
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説教をして下さった牧師さんに尋ねてみた。
「生きることはキリスト、というのは悟りのことなのでしょうか?」
返ってきたのは、こんな話だった。
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フィリピンのゴミ山で暮らす子どもたちを支援している。自分はただ現地に行くだけなのに、全国から驚くほどの支援が集まる。それは神が遣わしてくださるのだ、と。ただそのために生きる。それはあなたの言う悟りなのかもしれませんね、と。
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なるほど。解釈が少し違っていたようだ。
キリスト意識とは、痛みを感じない超越状態なのだろうか。
聖書を読めば、イエスは苦悩し、叫び、絶望の言葉さえ口にしているようだ。
完全無欠の無痛の存在ではなかった。
それでも「赦す」と言った。
キリスト意識とは、痛みを消すことではなく。
傷つかない超人になることでもない。
傷つきながらも、復讐に自分を明け渡さないこと。
怒りが湧いても、それをアイデンティティにしないこと。
「私は被害者だ」という物語に自分を閉じ込めないこと。
分離を超えて、なお愛を選ぶ自由。
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それは5次元に浮上することではなく、この地上での選択の話だ。
叔父の人生は、まさにそうだったのかもしれない。
世界を飛び回りながら、目の前の人を気にかける。
自分が主役ではなく、遣わされる場所に立つ。
自分が救うのではなく、自分を通して何かが働くことを信頼する。
「私はただ行くだけなのです」
その言葉は、悟りの説明よりもずっとリアルだった。
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自我が中心でなくなること。
自分の正しさよりも、愛を優先すること。
それが「生きることはキリスト」なのだとしたら、叔父はそれを静かに体現していた。
そして「死ぬことは益である」それは死を望む言葉ではない。
役目を果たし終えたなら、恐れなくていいという宣言なのだ。
人生を損得で見たとき、死さえも損ではないと言える境地。
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蓋が開く日だと言われる月食。
今日開いたのは、「どう生きるか」という問いだった。
何か大きなものに自分を明け渡し、それでもこの地上を丁寧に歩くこと。
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私はキリスト意識を、痛みを超越した光の状態だと思っていた。
でも違ったのかもしれない。
痛みがあっても、それを世界への怒りに変えないこと。
苦しみがあっても、それを自分中心の物語にしないこと。
叔父は、血液のがんの痛みを抱えながら、最後まで人を気にかけていた。
それは「痛くなかった」のではなく、痛みよりも大切なものを知っていたということなのかもしれない。
生きることはキリスト。
それは、痛みのない世界に行くことではなく、痛みの中でも愛を選び続けること。
だからきっと、死ぬこともまた、益であると言えたのだ。
