身近な人が長年勤めた仕事を退職されました。
合わないとか、他に興味が出れば職場を変えてきた羽奏。
周りから見ると好き勝手生きているように見えていたと思います。
10年・・・20年・・・30年・・・?トータル何年お勤めかは聞いては居ませんが、その方は私などでは考えられない途方もない時間を同じ場所で過ごされてこられたのだと思います。
感慨深いものがあったと思います。
やっと自由になれた。
自由には責任を伴いますが、その方は責任を背負いすぎて自分で自分を縛られていたように常々感じていました。
羽奏自身、とても自分を縛っていた時期がありました。
こうすべきだ、と言う周りの言葉に振り回され随分と我慢をしていました。
それは・・・自分の幸せとは相反する事実。
当時、家族や周りにカミングアウト出来ず、それでも世間体として世間一般のような家庭を作ることもできず。
中途半端な自分がとても嫌いでした。
そして、逃げるように探した仲間の元へ飛び込みましたが、新しい可能性を開くどころか余計に自分を縛り上げることになってしまいました。
私たちのような人種はこうあるべきだ。オマエはこうすべきだ。
そんな仲間たちの言葉に振り回され、自分がわからなくなり5感を失いました。
食欲、痛み、喜び、怒り、悲しみ、何も感じなくなっていました。
ただ、まだ生きているのを確認するかのように、毎夜、違う人間と過ごし朝を迎え。
それは、それは、怠惰な自殺だったのだと。
今思うと、自分が望む幸せを探すことも動くこともせず、全てを諦め自分や現実から逃げていたのでした。
でも。溜め込んだ澱はいつか溢れだします。
大きな試練を経験し、仲間(仲間だと思っていた)の元を離れ・・やっと、自分の道を歩みだしたのでした。
そして、この世界に飛び込み、本来の自分を取り戻しました。
自分本来の姿や本来望む幸せのままに生きることを我慢(放棄・諦め・逃げるとも言う)していると、思わぬところから前に進むために尻を叩かれるようなことが起こります。
神が与えた試練と言うものかもしれません。
ただ、歪みを元に戻す人間の本能なのかもしれません。
身近なその方は。
何度とない試練を耐え、やっと今度の試練で耐えるのやめる決心をされたのです。
私よりも随分と年上で、人生経験もおありでしょう、
でも、自分で自分を縛るその姿を見ていると、以前の私を見ているようで苦しくなっていました。
やっと。本来の自分の生き方に戻ることを選択された。やっと自由になられた。
自分のことのように、嬉しかった。
人は飛べる。
自分が決めさえすれば。
かつて、私もそうだった。
暫く、同じ繰り返しだった私に、手放し、また新しい1歩を踏み出す勇気を与えてくれました。